2012年12月22日土曜日

先生という人。

久しぶりに鈴木先生を思い出して、見ていた。

あのドラマは本当に好きだった。

好きというか、考えるドラマだからこっちも考えさせられて

すごいと感じながらリアルタイムに高校生の僕は見ていた。

もちろんドラマだからこう成立してる部分もあると見てて思うんだけど

あんな先生が僕は欲しかった。

みんなで大人になりたかった。

僕は小学校はイジメを受けて、消して先生は悪い先生ではなかったが
そのイジメを収着させたのは自分自身だった。
先生にも親にも言ってたけど
最終的に自分が喧嘩に立ち向かっていた。
人間、本気になったら何をするかわからない。
この時に自分が自分自身を構築を始めた気がする。

そして小学校を卒業後に中高一貫にはいった。
まあ、イジメほどじゃないけど、クラスの奴に弄られて過ごしてた。
友達いたし、なんて言っても別に自分を置いておける場所があったので
別に学校なんていらないとも思ってた。

客観的な僕からしたらすごくもったいないことだ思ってた。
居場所を作るのは人生ですごく難しいことで
生きていて何個も作れない物だと思っているから
こうやって何個も僕自身の中ではあると思えてることはいいことだなと
ずっと思ってたから。
自分から居場所を捨てる様なことはもったいないなあ。って
たくさんあれば自分がこんなにも感情を分裂して、時には押し殺し
自分が生きやすくなるため構築する人生を歩まずに済んだ。と思う

鈴木先生のあの世界には
居場所が強制的にあったと思う。
そして全員が考え
深めようと最後にはしていた。
あれは世の中出来ない人がたくさん居ると思う。
気づくことなく死ぬ人もいるだろう。
僕は考えを共有出来る人間がまだ本当に現れていない。
あんな学校に行っていれば
僕もこんなこともなく一緒にステップ踏んで共有し易い人間になっていたのかもしれない

結局僕が様々な感情をぶつけたって
同級生は誰も同じベクトルで球を返してくれなくて
高校3年の時に絶望したんだ。
僕が幼稚なのかもしれないけど
幼稚なら誰でも返せるだろうし
変なこと言ってるなら
高3なんだから真っ当な答えを投げることもできたのでは無いかと思う。

だから孤独に思い詰める。
大丈夫?なんていわれるけど大丈夫ではない。
でも内容は答えることはできないのだ。
自分にも問さえもわかっていない。

だからこそ僕はあんな先生に出会いたかった。
あんな先生がいたら僕の人生の道筋も多少は線が見えたのかもしれない。
結局今でもずっとなにかつかかっているのだ。





0 件のコメント:

コメントを投稿